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チャイニーズニューイヤー [文化]

1月26日マニラのパッシグ川北岸ビノンド地区ある中華街では、鉦と太鼓のリズムにのった勇壮な獅子が、旧正月の祝賀行事を最大限に盛り上げる。中国獅子舞は、邪気を追い払い福をもたらす象徴として、古くから中国に伝わる神事に欠かせない。フィリピンにおける華人(中国系住民)・華僑は、19世紀中・スペイン領フィリピン末期にフィリピンに来住した中国人あるいはその子孫である。フィリピンでは総人口の約1%が華人・華僑とされ、その約8割が福建省南部沿海地方出身である。マイノリティながら、同郷者で形成されるコミュニティーと、フィリピン経済の商業と流通においては、約75%を華人・華僑が所有している企業が生み出している。現代フィリピンを代表する企業の創業者あるいは経営者も多い。経済的に実力をつけると政治面でも力をもつようになるのは資本主義社会である。政治面でコラソン・アキノ元フィリピン大統領は華人の血を引いている。近年、華人・華僑には「中国人性」を積極的に保持しつつ、自身の政治的なアイデンティティ、忠誠が明確にフィリピン国家にあることを表明する一方、エスニックグループとして、フィリピン国民の正統な構成要素として認知を求める動きがある。

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▲マニラのビノンド地区ある中華街

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▲マニラのビノンド地区ある中華街

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▲河沿いに中華料理の屋台が並ぶ

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▲中国獅子舞が練り歩く

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▲正月飾りを購入する人たち

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▲中国獅子舞が踊り歩く

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▲中国獅子の前で記念撮影していた子

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▲オープンバーでお客と会話する中国獅子舞

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▲花や豆の物売りも中国獅子舞と一緒にオープンバーを廻る





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トンド・フェスタ2009  [文化]

1月の第3日曜日はサント・ニーニョ(幼きイエス・キリスト)のお祝いをする。このサント・ニーニョとは、幼きイエス・キリストのことであるが、この像は幼きキリストが王冠をかむり、赤いマントを着て、右手には王笏を左手には宝玉を持っており、その由来については伝説となっている。1521年にマゼラン東洋遠征隊がセブに上陸し、セブのファナ女王に守護聖人のサント・ニーニョ像(身長約40cm)贈ったもので、1965年にはローマ法皇よりバシリカ・ミノレ(教会堂)の称号を与えられ、「バシリカ・ミノレ・デル・サント・ニーニョ」が正式名称となった。この日、マニラのトンド地区(スモーキーマウンテン地域を除く)では、トンド・フェスタ(Tondo Fiesta)が開催される。各家庭で祀っているサント・ニーニョ像を神輿、サイドカーやジープニーに乗せてトンド教会に向けて行列(プロセッション)を行っていた。また、各バランガイ(最小行政地域)毎に構成されたチームで「ビバ!サント・ニーニョ!」と戦慄なドラムパーカッションのリズムに合わせて、カラフルコスチュームを身に着けて、踊りながら行進して行く。マニラ市長のリム氏もパレードに参列して、場を盛り上げていた。老若男女問わずフェスティバルに自ら参加し情熱を注いでいる。観ている側からも熱気を感じた。

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▲サント・ニーニョ像を神輿に載せトンド教会まで行列をする

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▲神輿のサント・ニーニョ像

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▲サント・ニーニョ像を抱く人

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▲行列は途切れることなく教会へ向かう

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▲マニラ市長のリム氏もパレードに参列

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▲住民はプロセッションを見守る

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▲ギャラリーも熱気ムンムン

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▲サント・ニーニョ像が乗った神輿が行進する




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Patintero [文化]

スモーキーマウンテンの本住宅のビルディングの通路で、子どもたちがパティンテロ(Patintero)という遊びをしていた。パティンテロとは、フィリピンで有名な子どもたちの遊びで、6~8人が、2組に分かれ最初にジャンケンで勝った組が、床にチョークで描かれた田の字の中の4つのマスを回り、決められた回数を回ると得点になる。ジャンケンで負けた組は、鬼となり田の字の中の十の字の上を走り、相手を捕まえて失格とする。負けると罰ゲームとして敗者の手の甲を勝者が中指で弾く。敗者と勝者が交替してパティンテロという遊びは続けられる。小生の子どものころ「ペロン」という似たような遊びで遊んだことを思い出した。遊びのルールはほとんど同じである。子どもたちの遊びは世界共通だと思う。今でも日本で「ペロン」という遊びが行われているのか定かではない。

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▲田の字の中の4つのマスを回る

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▲田の字の中の十の字の上を走る鬼の人たち

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▲田の字の中の4つのマスを回る子ども

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▲鬼はマスを回る人を捕まえる

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▲子どもたちはフェイントをかけ隙を窺う






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110周年独立記念日 [文化]

6月12日は、「フィリピン独立記念日(Independence Day)」。1898年4月米西戦争が勃発し、翌5月にアメリカはマニラ湾の海戦に勝利しフィリピン支配が始まる。1897年、スペインに対する武装蜂起による革命政府を樹立していたエミリオ・アギナルド将軍(Emilio Aguinaldo 1869年3月30日~1964年2月6日)が亡命先の香港から帰国し、1898年6月12日にカビテ州カウィット町の自宅でフィリピンの独立を宣言し、フィリピンの革命家にして自らフィリピン共和国初代大統領に就任した。 昨日、カビテ州カウィット町のアギナルド博物館に於いて、110回目の独立記念日式典が開かれノリ・デカストロ副大統領が演説をした。演説の中で一部の財閥による私的利益の優先が新たな貧困を生んでいると嘆いた。

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▲独立記念日はKalayaanという

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▲カビテ州カウィット町「エミリオ・アギナルド生家の博物館」

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▲「エミリオ・アギナルド生家の博物館」の奥に
  エミリオ・アギナルド初代大統領が埋葬されている

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▲フィリピン国旗

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▲ノリ・デカストロ副大統領(左)

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▲ノリ・デカストロ副大統領

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▲ノリ・デカストロ副大統領の演説がアギナルド博物館で行われる

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▲ノリ・デカストロ副大統領の演説

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トンド・フェスタ [文化]

1月の第3日曜日はサント・ニーニョ(幼きイエス・キリスト)の祝日でもある。このサント・ニーニョとは、16世紀にマゼランがセブのファナ女王に守護聖人のサント・ニーニョ像(身長約40cm)贈ったもので、1965年にはローマ法皇よりバシリカ・ミノレ(教会堂)の称号を与えられ、「バシリカ・ミノレ・デル・サント・ニーニョ」が正式名称となった。この祝日にマニラのトンド地区(スモーキーマウンテン地域を除く)では、トンド・フェスタ(Tondo Fiesta)が開催される。最大の見所は、各家庭で祀っているサント・ニーニョ像を神輿やジープニーに乗せて、トンド教会に向かう行列(プロセッション)が行われる。地域の各家庭は、ご馳走を作り親族や友人を呼んで振舞う。


ハッピーフェスタ!!


▲サント・ニーニョ像を神輿に載せトンド教会まで行列をする。


▲神輿のサント・ニーニョ像


▲行列は途切れることなく教会へ向かう


▲ジープニーに載ったサント・ニーニョ像


▲地域毎に鼓笛隊がいる
 


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リサール・デー [文化]

ホセ・リサール(José Rizal)フィリピン独立の英雄。1861年、ラグナ州のカランバで父フランシスコ・メルカドと母テオドラ・アロンソの間に生まれた。彼の家系はメスティーソといわれる中国とフィリピンの混血の一族であった。初等教育を終えるとマニラのアテネオ大学に学び、1877年に学士号を取得した。さらにアテネオに学び、土地測量の技術を学びながら、同時にフィリピンの最高学府サント・トマソ大学で哲学を学んだ。その後、母が失明の危機に陥ると医学を学ぶことを決意し、サント・トマスで医学を学び始めた。しかしサント・トマスを運営するドミニコ会員たちのフィリピン人蔑視の雰囲気に耐えられず大学を去った。リサールは父の反対を押し切って宗主国であるスペインマドリッド留学した。マドリッド中央大学で医学の勉強を続け、医師免許を取得すると、さらにハイデルベルクとパリで医学の研鑽を積んだ。ちなみにリサールは語学の天才であり、アラビア語、スペイン語、中国語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、マレー語、ポルトガル語、ロシア語、タガログ語やフィリピンの諸言語を自在に操り、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、日本語、サンスクリット語を理解したといわれている。ホセ・リサールは「ノリ・メ・タンヘレ」(『我に触れるな』の意)と「エル・フィリブステリスモ」(『反対者』の意)という二つの著作で有名である。両方ともスペイン語で書かれているが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状が克明に描き出されており、フィリピン人の間に独立への機運を高めた。リサールは政治的独立のみを目指す革命志向家というよりはフィリピン人たちの生活改善を願う改革者であった。バルセロナでスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織してプロパガンダ運動を始め、雑誌「ラ・ソリダリダード」(『連帯』の意)を創刊した。そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった。フィリピンはスペインの一地域であること、スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと、スペイン人の聖アウグスチノ修道会員、ドミニコ会員、フランシスコ会員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと、言論の自由が認められるべきこと、フィリピン人に法律的平等が与えられること。もしこれらの改革案が受け入れられていれば、リサールの著作にも何の問題もなかっただろう。しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。1892年、マニラに戻ったリサールを待っていたのは辺地への追放であった。容疑は「リーガ・フィリピーノ」(フィリピン連盟)という組織による破壊工作。ミンダナオ島へ追放されたリサールは同地で病院と学校をつくって住民の啓蒙につとめた。1896年、秘密結社カティプナンが独立闘争を開始すると、以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕され、暴動の扇動容疑で銃殺刑が宣告された。リサールの人物を惜しんだスペイン人官吏が国を出て、キューバで医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案したが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選んだ。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言がわりの辞世の詩は後に「ミ・ウルティモ・アディオス」(『私の最後の別れ』)と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。1896年、ホセ・リサール銃殺。リサールが処刑された場所は現在、リサール公園(ルネタ公園)として整備されており、彼を記念すると共に市民の憩いの場所になっている。ちなみにリサールは1888年に来日しており、一ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されている。(フィデリ今日は何の日?より)


ロハス大通りにあるリサール・デーの看板


リサール公園(ルネタ公園)のリサールの記念碑


リサールの記念碑


サンチャゴ要塞にある監獄内のリサール像


サンチャゴ要塞内リサール博物館にあるリサール像


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All Saints Day [文化]

10月30日~11月2日は、祖先の霊を供養する日本のお盆にあたる。家族で墓地に出かけ、お墓の掃除をしたり、ペンキの塗り替え等をして、31日の夜から墓地に1年に1度、家族や親類も集まって、亡くなった近親者を偲びながらお墓参りする。墓地では会食したり、マージャントランプ等のゲームをして夜明かしをする。11月1日(祝日)は、諸聖人を記念する万聖節(All Saints Day)で、2日は死者を記念する万霊節とカトリックの教会暦になっている。


マニラ南墓地ゲート


墓地にてお墓にペンキを塗る人たち


墓地にてペンキ塗りのお手伝いをする


墓地にてお墓にペンキを塗る人たち


11月1日零時、お墓にろうそくが灯される


お墓にろうそくが灯され家族の人たちがお墓参りをする

 


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少女18歳誕生日のデビュー [文化]

小生が以前所属していたNGO「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」の際にスモーキーマウンテン奨学金プログラムとして、1991~1997年の間、約1000名の小学校1~6年生まで奨学金を支援を行っていた。その奨学金対象者であった一人の母親から、娘のLovey(18)の誕生パーティーに招待された。スモーキーマウンテン本住宅に住むLoveyのお母さんも頑張って、ケーキを購入し、食事を沢山用意した。Loveyの多くの友人たちがお祝いに駈けつけた。少女が18回目の誕生日を迎えると成人になるお祝いとして、デビュー(Debuts)タガログ語でデボ(Debo)と呼ばれる。少女から女性として、正式に社会へのデビューする日となる。本来は、聖職者がお祈りを捧げてからパーティーが始まる。18本のキャンドルが女友達や家族から「デビュー」する彼女に贈られ、ケーキに置かれ、キャンドルに火が点き、「デビュー」する彼女が火を吹き消す。次にコティリヨン(Cotillion)と呼ばれる踊りが行われる。彼女のエスコート役として、18人の男友達は「バラの花(18Roses)」を1本づつ順番に「デビュー」する彼女に渡しながらワルツ、タンゴ、スイング、cha cha等の社交ダンスを踊る。この最後に踊るパートナーがボーイフレンドとされ、ボーイフレンドのいない彼女は父親と踊るそうだ。「デビュー」する彼女、彼女のエスコートと彼女の友人9カップル、合計18人のグループでの社交ダンスも披露される。招待された人は社交ダンスを「デビュー」する彼女と一緒に踊り、真夜中か彼女の肉親の大部分が去るまで続けられる。上流の金持ちの人々は、若者がコティリヨンメンバーとして関わった「デビュー」の数がそれらの人気のマークになったり、「デビュー」する彼女がいる場合、多額な出費の結果は、気前のよさとして認識され肉親の自慢となる。


18歳の誕生日デビューをむかえるLovey


18歳の誕生日ケーキ


Loveyの家族


おまけ


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けんぱ遊び [文化]

スモーキーマウンテン本住宅で、子どもたちがピコ(Piko)という、「けんぱ遊び」をしていた。一人一個の目印を持って、じゃんけんで勝った人から、チョークで描かれた一番下のマスに目印を投げて入れる。目印がマスに入ったら、片足けんけんで自分の目印の入っているマスを飛ばして次ぎに跳んで行く。3つ並んだマス目は、右から左に順に飛んでいく。最後のマスまで行ったら、両足を開いたままで向きを変えて折り返えす。戻る際に手を伸ばして、片足のままの姿勢で目印を取る。最後のマス目まで、一番先に辿り着いた人が、後ろを向いて目印を投げれる。目印がマスに入れば、☆印を描き、目印が入った人だけが、その☆印マスに両足で入れる。その他の人は☆印のマスに入れない。最初の人が失敗したり、1回休みになるまで続け、最後のマス目まで、先に着いた人が勝ちになる。ピコ遊びを見ていて、小生の小さい頃を思い出した。TVゲームもない時代、何人か人が集まると始めたのが「かかしけんぱ」で、地面に木の棒で、「かかし」を描き、平たい石を「かかし」のマスに投げて、片足けんけんをしてよく遊んだ。今の日本の子どもたちもTVゲームではなく、「けんぱ」で遊んで欲しいものである。


▲ピコ、日本のけんぱ遊びによく似ている


▲このような外遊びから学ぶルールも必要だ


▲ピコをする子どもたち


▲小生も「かかしけんぱ」を子どもたちと一緒にやってみた

 


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階層社会 [文化]

フィリピンの階層社会は、よく A,B,C,D,E の5段階に分類される。富裕層は、A の三角形頂点の5%は、家族の年間収入100万ペソ以上。中間層のB,C、約35%は、家族の年間収入40万ペソから100ペソ万まで。貧困層のD は、家族の年間収入10万ペソから40万ペソまで。最貧困層と称せられるスクワッター(違法占拠住民)はE で、家族年間収入10万ペソ以下である。D層とE層をあわせると、国民の約60%に及ぶそうだ。5人家族で月収5,000ペソ以下が貧困層と定義づけされている。フィリピンと日本の物価水準と比較すると5分の1であるが、人口増加率が2.36%、一人あたり国民総生産(GNP)1,232ドル、国内総生産(GDP):976億ドル、国内経済成長率が5.1%、(2005年、中央銀行、国家統計局等)のこの国での賃金収入は低水準であると思う。そして富裕層と貧困層の間の経済的格差が開きすぎている。(ペソ≒円換算レート2.61)6月11日現在


▲マカティ市の高層ビル


▲マカティ市ビジネス


▲マカティ市高級住宅街(写真中央)

 


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